『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を観た

新宿まで出て、映画を観てきた。

私はMCUもアメコミもスパイダーマンもにわか程度にしか消費してないし、なんだったら映画そのものをあまり観ない人間だけども『アベンジャーズ/エンドゲーム』が話題になった時にディズニープラスの登録後一ヶ月無料期間をつかって最短チャートでアベンジャーズ・シリーズを消化して以来、追いかけている。俳優の顔は覚えられないしセレブも追いかけてないし運動音痴だからアクションのすごさもよくわかんないし、あまり良い観客ではないはずだけども、スパイダーマンは動きが大きいので楽しんで観られている。派手なエフェクトの多いドクター・ストレンジが活躍してくれるところもありがたい。

今回で最後になる?スパイダーマンの三部作シリーズはその時々に世間を賑わせている話題を扱った時事ネタ速報の印象が強いシリーズなんだけども、今回もそれがたっぷりと盛り込まれていた。なによりも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』みたいだったし、やっとスパイダーマンは本来のスパイダーマンに戻ることができた、という印象である。

『ノー・ウェイ・ホーム』はすでにSNSで話題になっている通り、複数の世界線がひとつの世界に流れ込んできて、いろんなスパイダーマンといろんなヴィランがそれぞれのトラウマを回復して、結局そのままヒロミやフミヤの後輩なんかも合流して朝まで大変だったお話になっていて、特に『アメイジングスパイダーマン』はきれいに回復できたんじゃないだろうか。

スパイダーマン三部作はMCUを観ていると感じる「ハルクがものすごい筋肉で悪者を殴れば解決するのでは?」に対して「悪者を殴っても解決ではない」という問題を提示し続けた。強い力の後始末はアメリカが抱える神経症で、ここ十年くらい繰り返し歌われてきたテーマでもあるし、日本でも「大怪獣のあとしまつ」なんて映画が公開されるようなのだけども、この意識はグレタ・トゥーンベリを持ち出すまでもなく若年層には実感としてあるものなのかもしれない。今回の話にしたってドクター・ストレンジがその高すぎるプライドゆえに能力を超えた魔法をつかおうとして失敗した後始末であって、事件としては完全に無駄な出来事でしかない。

これを「大人を頼った結果の失敗」としてみると、ずっと気になっていたピーターの諦めの良さの正体が見えてくる気がする。ピーターとMJ、ネッドはスパイダーマンとその仲間であるという理由で大学の入学を拒否されるのだけど、ピーターは"自分は入学できなくてもいい"けども友人だけは入学させてほしいと頼み込む。この自己犠牲の精神、自分に対する諦めは作中でも「期待しなければ失望しない」と繰り返し唱えられ続けるテーマで、メイおばさんがハッピーを「しつこいから」と遠ざけたのもそうだけど、諦めが肝心というイメージはいくどとなく繰り返される。ピーターは諦めないことで、ヴィランを殺してもなにも解決されないことを学んだし、スパイダーマンたちのトラウマを回復させることはできたし、けれども最後の解決ではやっぱり自己犠牲を選ぶし、すべての人類から自分の記憶を消したあとでMJに会いに行っても諦める。そしてこの最後の諦めだけニュアンスが違ってみえて、メチャクチャにかわいそうなんだけれども、新しい旅立ちのような晴れやかさがある。この最後の決断だけは大人にも結果にも期待していない。ただ自分でそうすると決めた決定なのだ。だから失望もない。すべて引き受けることを決めたピーターの決定だ。実際に演じているトム・ホランドはあれを"解放"と受け取っているし、MJ役ゼンデイヤのほうは文句たらたらのようだ。

作中で何度も繰り返されるヒーローは謎めいた存在でなければならないというテーマはヒーローの正体とその苦悩のディテールを掘り下げて描いたMCU自体を否定するかのようだし、オズボーンの内面がヒーローのそれと同一であることが示唆されて、ベンおじさんの役割を担うはずだったトニー・スタークは失われてしまった。ヒーローってなんなのだろう。ピーターは誰をモデルにして生きていけばいいのかわからない。強い個人の拡張された精神をそのまま引き受けることに頷けない若者はずっと"家"から遠く生きてきて、ついには帰る道がない。

そんなピーターにとって期待しないことは同時にポジティブなことにも繋がるのかもしれない。世界はピーター・パーカーを忘れてグレート・リセットされるわけだけども、当の本人はすっきりとヒーロー活動を再開する。トゥイックスターなんてミームがあるけども、さまざまなしがらみで十八歳を過ぎても実家を出られない若者が増えている昨今、ハイスクール以前の人生をすべて捨てて自分の力で生きはじめるピーターの姿は憧れと共感を呼び起こすのかもしれない。

なんだか後ろ向きに感じられるのだけども、そもそもスパイダーマンアンチヒーロー性に立ち返ると、こうなるしかないのである。

スパイダーマンはマッチョではない、どこにでもいる人物。オタク。これを"オタクのヒーロー"と読んではいけなくて、運命づけられた人物ではない、選ばれし者ではないのがスパイダーマンだ。フルフェイスのマスクもその代替可能性を保証していて、作中でマックスはスパイダーマンを"黒人だと思っていた"という。ヒーローの物語を強調すればするほど、その人物にまつわる属性によって可能性は収束してしまう。マッチョで、白人で、男性で……ヒーローのディテールを深めるほどに、どうしたって可能性は狭くなる。物語を付与すればするほどに、ヒーローは独立した個人になって、個人の物語を生き始める。”スパイダーマン"という固有名だけならマルチバースが生まれるけども、今この物語を生きるピーターはひとりしかいない。誰なんだかよくわからないから誰でもそこに入り込む余地がある。

スパイダーマンの三部作ではオルタナ右翼やキャンセルカルチャーなどのモチーフを使いながら顔のない大衆の暴走を描いてきた。地縁にも血縁にもつながらない、正体不明の、同じ社会に生きる隣人。何やってるのかわからない人。それは『ジョーカー』で描かれた恐怖でもある。でもその隣人は、ひょっとするとスパイダーマンかもしれない。そう思えるところまでヒーローの可能性を還元するためには、誰もがピーター・パーカー個人の物語を忘れて、恐るべき隣人を、親愛をもって見つめ直す必要があった。

ハンナ・アーレントが『革命について』で述べた活動家と偽善を思い出される。どのような活動であれ、その動機に光を当てれば当てるほどに個人としての動機が浮かび上がって、正義としての欺瞞が明らかになる。そのひとがどんな動機で活動をするのか、それはどこまでいっても袋小路でしかない。誰だかわからない人による、ほんの気まぐれかもしれない、なんだったら利己的かもしれない行いがたまたま正義だったり悪だったりする。チームで動くのが苦手だからムズムズに従って自由に動く正体不明の隣人のすることが人助けになったりならなかったりする。強くてかっこよくて使命と物語を背負った個人をやめて、個人の精神と身体の拡張である集団を飛び出して、大衆の影に身を潜めることで彼は、誰だかわからない謎めいた、しかし親愛なる隣人=スパイダーマンになる。もうチームにもホームにも帰らないのだ。

はじまりにアベンジャーズやトニー・スタークがいるせいで本来的ではないスパイダーマンアベンジャーズに押し込められた歪んだスパイダーマンが"アベンジャーズスパイダーマン"になる、なんだかアンチ・アベンジャーズみたいな話に読めたわけだけども、それでも私はMJとくっついてほしかったぞ。