香水をつけていたら気がつかれた話

以前、なんとなく盛り上がっておっさんどもで集まって香水を買いにいって以来、たまに香水をつけている。買ってみるまで香水に消費期限があるなんてことは知らなかったし、使わないとなくならないし、これがもうちっとも減らないものだから使わざるを得ない。コロナ禍でリモートワークになったものだから外出する機会も減って、誰と会う予定もないのにただただ香水をつける。単純に良い匂いがするし、ワールドに存在する冴えないおっさんモブからなぜか良い匂いがするバグっぽさもおもしろい。そんな自己満足でつけているうちに、そのような香水の使い方が私にとって当然のものになった。

その日は珍しく人に会う予定があった。いつものように香水をつけて出かけると「ひょっとして香水つけてます?」と訊かれた。香水をつけるようになってから、初めて他人に気がつかれた。

香水をつけるひとが一般的にどういう意識でつけているのか知らないが、他人へのアピールである場合も少なくはないだろう。けれども部屋でひとりで香水をつけていた私にとっては、それはすでに自己満足のひとつになっていたので、ただいつも通りの行為だった。香水をつけてからそれなりに時間が経っていたので自分ではわからないくらいに香りも薄れて、なんだったらもう、つけていることすら忘れていたので、とっさに答えられなかったくらいだ。

話してみると相手は私のようになんとなく香水をつけるようになったぼんやりした嗜好とはちがって、香水に一家言ある人だった。後に香水の話で盛り上がることになるのだが、なるほど、オタク趣味を巧妙に隠していてもオタクにはバレるし、潔癖な人はよく掃除されている部屋でも汚れに気がつく。経験者だから気がついてしまうし、気がつかれてしまう。

そうして気がつかれてみると、これが案外と悪くない気分だった。

なんらかの自己満足に気がついてもらえる。その自己満足が本人にとって当たり前の無意識になっていても、なにかに気がついてもらえるというのは、ただそれだけで心地よくなるものなのだ。

よくパートナー間や気にかけている関係性の間で「変化に気がついてもらえない」みたいな話はよく耳にする。気がついてもらえないのは、注意を払っていないだけでなく、経験自体がなく、それが何であるかわからないこともあるんじゃないだろうか。何かがある、と感じても、既知のものであれば指摘したくもなるが、未知のものであれば見逃してしまう。気にかけている・いないだけでなく、体験の非対称性という要素もまた、大きいのではないだろうか。そりゃあ、やったことないもんはわからない。

最近マニキュアをはじめた知人男性や、乳首がデカすぎて擦れて痛いからブラジャーをつけようか迷っていた知人男性の顔が頭に浮かんだ。興味・体験の非対称性は単に趣味嗜好だけでなく、男のすることじゃないとか、女のすることじゃないとか、そういうなんとなく存在する分担によって生み出される気恥ずかしさが生み出す部分もある。最近は化粧をする男性も増えているし、そういう、まだあまり男性のやっていないことをやろうとしている男性らは、その分、だれかのなにかに気がつくことができるようになるのだろう。なら、なんとなくの規範意識なんてぶっちぎって、化粧だろうがマニキュアだろうがブラジャーだろうが、やってみたい・必要だ、と思うならガンガンやってしまえばいい。それが単に本人の興味・必要性であっても、同時に、誰かの何かを理解することにも繋がっていく。

「やってみたいと思ったことはなんでもやっていい」

あるアナキストが言っていた言葉が思い出された。