『シン・ウルトラマン』を観た

私はウルトラマンが好きではない。そもそも特撮というものが苦手だ。ウルトラマンは全身ツルツルで表情の動かない不気味な巨人であり、たいそうおぞましい。なんなんだあれ。どうしてあれが日本を代表するヒーローなんだ。まだ金髪宇宙人やゴム人間の方が理解できる。どうしてウルトラマンが国民的ヒーローになったのかまったくわからん。こわいじゃん。

ウルトラマンは誰に感情移入すればいいのかわからない。ヒーローものと言えば主人公であるヒーローに感情移入できるものじゃん?って思う。でも『シン・ウルトラマン』の主人公・神永新二は宇宙人との融合を果たした人間で、どうも人格的にもウルトラマンの方が強そうで、だから中身は宇宙人で、人間がまるでわからない。感情も希薄だ。人間のことがよくわからないのでひたすら人間勉強中!といった趣がある。こいつに感情移入するのは無理がある。

しかし『ウルトラQ』に立ち返ってみればそもそもウルトラマンではなくて、ホラー・怪奇が主人公。であれば、その延長線上にあるウルトラマンも、なぜだかわからないけども人間を脅かす珍奇な怪獣と、なぜだかわからないけども人間を守ってくれる珍奇な怪獣・ウルトラマンをみて「こわいねえ!摩訶不思議だねえ!」と楽しむのが建付けなのではないだろうか。

さて、ここは覚えておいてほしい。「ウルトラマンはヒーローに感情移入して楽しむ建付けではない」。私はここが、『シン・ウルトラマン』にとって、けっこう重要なポイントになるのじゃないかと思うのだ。

『シン・ウルトラマン』はだいたいエヴァンゲリオンである。エヴァンゲリオンエヴァンジェリスト略してエヴァンゲリストである私からみればたいていの作品はエヴァンゲリオンになるのだが、『シン・ウルトラマン』にはかなり濃度の高いエヴァンゲリオンを感じ取ることができる。

エヴァンゲリオンという視点で見る『シン・ウルトラマン』のすじがきはこうなる。絶対的に相互理解が不可能である宇宙人・ウルトラマンが、たまたまうっかり、人間と融合してしまった。「人間、よくわかんねえな?」と思いながら、人間のマネをしているうちに、なんだか人間のことが好きになってしまう。そうして「生きたいな〜!」と感じるようになる。つまり『シン・エヴァンゲリオン』だ。

さて、まずは『シン・ウルトラマン』の『シン・エヴァンゲリオン』を証明していこう。そういうのって好きだろ?

まず『シン・ウル』における怪獣と外星人、これはエヴァ・シリーズと使徒に相当する。

まず、怪獣はエヴァ・シリーズ。知的レベルの低い怪獣は局地用の生物兵器であることが明言されるんだけども、これは『シン・エヴァ』で冬月・ネルフがやっていたエヴァの兵器転用に相当する。知的レベルの低い生物を兵器にしてしまう倫理観。冬月・ネルフの倫理観は『シン・ウル』のメフィラスに到達していたというわけだ。ヴィレ、ドン引き。

知的レベルの高いザラブ、メフィラスのような外星人は使徒に相当する。エヴァにおける使徒とは群体である人間に対して、個体で完結している存在。単体生物。今回、彼らの名称から「星人」が省略されて単なるザラブ、単なるメフィラスになっているのは、そういう意図だ。母星があって同種の群体のある生物ではないのだ。彼らは人間の形を模倣することができるけれども、決して人間とは相容れない。相互理解は不可能なのだ。

こうやって『シン・ウル』をエヴァの構図に置き換えると、グッと見通しがよくなる。

使徒と人間は敵対している。絶対的に相容れない。ザラブは害虫駆除感覚で人類を絶滅させにきたし、メフィラスだって人間を生物資本くらいにしか考えてない。味方っぽい光の国ですら「人間は俺たちくらいに進化するかもしんないから廃棄しとこうや」くらいのブッ飛んだ倫理観なのである。

そんな緊張感あふれる宇宙の中で、唯一の例外がウルトラマンだ。ウルトラマンだけは人間を好きになっちゃう。ウルトラだって使徒である。なのになんでか人間を好きになって守り始める。「なぜだかわからないけども人間を守ってくれる珍奇な怪獣・ウルトラマン」なのだ。

ここで思い出したいのが「ウルトラマンはヒーローに感情移入して楽しむ建付けではない」って部分だ。

庵野秀明が学生時代に撮影したインディーズ・ビデオ『帰ってきたウルトラマン』で、庵野ウルトラマンを演じた。庵野は顔をだしていた。そう、庵野秀明ウルトラマンなのだ。

ウルトラマン』はウルトラマンに感情移入できるような建付けではない。

にも関わらず、庵野ウルトラマンに感情移入できてしまう。

人間を理解することができない宇宙人なのに、なぜか人間の味方をする。人間と同じ姿形をして、人間を勉強しながら、見様見真似で人間として生きている。人間がわからないけども、なぜだか人間は気になるし、おもしろいし、一緒にいたい。ウルトラマンは何者なのかを考え尽くした庵野は、ここに感情移入した。

人間は、好意に値する気がする。それは好きってことなのかもしれない。

エヴァ』の作中で何度も何度も登場する碇シンジの心の問題はヤマアラシのジレンマだ。他者の好意は意味不明、ゲンドウも綾波もアスカも自分を好きなのか嫌いなのか全然わからん。自分の向けた好意だって、好意的に受け取られるとは限らない。よかれと思って使徒を倒せば鈴原トウジに殴られる。がんばってるのに怒られる。でも謝ってくれたりもする。人間だから、人の形をしてるから、群体として生きなければいけないのに、その群体に馴染めない。群体なんて全然わからん。でも、心地がよい時もある。殴ったことを謝られたり、がんばったことを認めてもらえたりして、馴染めたような気がすることもある。でもどうせ裏切られる。

それでもウルトラマンは人間のために戦うのだ。じゃあ、なんでウルトラマンは人間のために戦うのか。それはやっぱり人間に化けているからで、人の形をしているからだ。人の形をしているから、人の心がわかってしまうのだ。

もちろん!ここでみなさんは『新世紀エヴァンゲリオン』第20話「心のかたち 人のかたち」を想起されたと思います。結構!おおいに結構!そうでなければ!

ここで唐突に脱線してガイナックスの話をはじめましょう。ガイナックス作品に繰り返し登場するモチーフとして「地球を守るのは人間だ」があります。『トップをねらえ!2』は人類が宇宙に進出して、もうあちらこちらで暮らし始めている世界を宇宙怪獣が脅かす。最強の宇宙怪獣をやっつけるため、人類は「地球ごとぶん投げて怪獣にぶっつけて、俺らは宇宙に逃げようぜ!」大作戦を発案します。

主人公の少女・ノノは、太古の昔に人類と地球を守るために作られたロボット。ノノは人類の判断に反してまで「地球ごと自爆」作戦を食い止めて、自らを犠牲にして宇宙怪獣をやっつける。この時、地球に思い入れのある老人が「なんで昔の人類は地球の守り神を人間の形に模したんだろ?」みたいな意味深なセリフを言う。

この、現在ではトリガーにも受け継がれるガイナイズム(ガイナ主義)を、ガイナ学・トップ学の分野における支配的言説では「ロボットものが持つテーゼを受け継いでいる」と解釈するのが主流でした。ロボットものには「人型ロボットを主人公にしなければいけない」というルールがあります。しかし、兵器を人型にする意味なんて、どう考えたって、無い。そこから『ガンダム』はミノフスキー粒子を生み出しました。『パトレイバー』は作業用ロボットのパイロットを傷つけずに取り締まる警察権力であり、視覚的効果による示威効果もある。その他、エトセトラ・エトセトラ……。

巨大ロボットものの建付けで企画された『新世紀エヴァンゲリオン』では、この問題系に「いっそ人型ロボットじゃなくって、人造人間だから人型」で解答しました。じゃあなんで人造人間なのか。それは『トップ』から、『帰ってきたマン』から延々から続く庵野秀明の問題意識、「ウルトラマンに感情移入できる庵野秀明」の「ウルトラマンは(私は)どうして人間が好きなんだろう」に発端があるのだと、私は庵野学からガイナ学へとアプローチしたい。

さて、逆にトップ学から引用すれば、ゼットンが変形する理由も説明できます。

『トップ』では宇宙怪獣を純粋な悪意と表現しています。人類を、地球を滅ぼすものは決して人の形をしていてはならない。これはエヴァンゲリオンにおける「最強の拒絶タイプ」のゼルエルは元々けっこう人型っぽかったのに『シン・エヴァ』でタコみたいな、完全に人型から逸脱したデザインに変形する描写にも共通します。ゼットンは変形しなければいけなかった。同時に「人型」の解釈はテレビ版エヴァ以降に強化された概念であることも伺えますね。

つまるところ「人間は人の形をしているから人間だ」なのです。人間は人間の形をしているから心を通わせることができる。通う心は形に宿る。人はこの星でしか生きられなくても、人の形をしたものは、その中に宿る人の心とともに永遠に生きられる。それはとても寂しいけれども……。碇ユイのこのセリフを、アニメ業界と作家と作品に相対させるのは、解釈として飛躍的すぎるわけではないでしょう。

さて「なんでウルトラマンは人間のために戦うのか」に対する解答としての「人の形をしているからだ」にはいったん、決着がつきました。この場に集う庵野学の徒であれば当然の前提ではありますが、もう一度、あえてエヴァをご説明させていただきたい。

わけのわからない他人なんてみんな同じ。その中で、どうにも好意を抱いてしまう個体がある。その個体差はなんだろう。その個体が好きだから人間を守ってしまう。個体とはどうせわかりあえない。けれども、どうしても諦めきれない個体がある。

恋愛、と呼んでも構わないであろうこの問題に対する旧劇時点での答えとは「LCLに溶け合わず、人間の形を維持する碇シンジとアスカ」でした。通じ合えない、強い自我なんてなさそうな人間はすべて同じだし、同じ形状になってしまえばいい。それはとても気持ちのいいことである。でも自我が強いから人の形でいたいし、自我が強いからきもちわるい。わかりあえない。

それでもやっぱり「おかえりなさい」と言われるのはなんとなく嬉しい。心がぽかぽかする。やっぱりこれなのだ、と『トップ』の実感に回帰したのが『シン』以降の庵野秀明の実感なのです。「おかえりなさい」のモチーフは、やはりトップからエヴァまで繰り返し登場するものです。庵野学の見地からみれば『トップ』も『シン・ウル』もやはり同様に『エヴァ』なのです。

さて、ここまでの読解はおおよそ庵野秀明のシナリオ通りと考えてよいでしょう。庵野学を志したものであれば当たり前に辿り着くことができる、親切すぎる符号……。なぜなら『シン・ウルトラマン』の主人公の名前は「神永新二」、つまりウルトラマンは神にも等しい永遠の存在にして(……エヴァであり使徒、ですね)、新しい二番目の碇シンジであると示されているのですから。

我々がシュワの墓所の守り人であれば、主の読解に一生を捧げてもよい。作中で「裁停者」という漫画版『風の谷のナウシカ』におけるウルトラマンを指す言葉がでてきましたし、シュワの狂った教団のように庵野秀明の手のひらでダンスを踊り続けるのもまた、在り方のひとつではあるでしょう。

しかし、我ら学会の徒は人間です。我々は2022年を生きる人間として『シン・ウルトラマン』を解釈する必要がある。私はそう思います。

さて、ひとつ疑問が残っています。結局、どうしてウルトラマンは人間を好きになったのでしょうか?

数いる外星人の中でウルトラマンだけが人間を好きになった。そんなに人間が好きになったのか。ゾーフィーもドン引きのこの疑問にハマる最後のピースを、私は作中におけるセクハラ描写なのではないか、と提案したい。

『シン・ウル』のセクハラ描写はいくつもありますが、代表的なものは二つ。ひとつ、ヒロインには自身の尻を叩く癖がある。ひとつ、ヒロインはウルトラマンに体臭を嗅がれる。目立つのはもっぱらこの二つです。

庵野学の初歩的理論を応用すれば、これらはセルフオマージュであることがわかります。「ヒロインが尻を叩いて気合をいれる」のは、葛城ミサトの私生活がだらしない、缶ビールをプシュッしてクゥ〜と同様の、働く女性の中年臭い行為・癖というギャップ。そして体臭は、碇シンジLCLの匂いを嗅ぐ、また綾波レイ碇シンジの匂いを察する、そして真希波マリがネルフのわんこくんの匂いを嗅ぎ、その匂いを辿って見つけ出す描写へのセルフオマージュです。

これは邪推と非難されても差し支えない想像ですが、これだけ頻出するモチーフである以上は、これらはセルフオマージュの域を越えて、作家のフェチズムと解釈するほかにありません。しかしこのフェチズムこそがウルトラマンが人間を好きになってしまった理由、群体がわからない完結した個体が群体を理解する一要素なのです。

さきほどのLCLの解釈を思い出してください。あれは「自我をもたない他者なんてすべて同じなのだから、溶け合ってひとつになってしまえばいい」。人間が人間の形を保つのは自我である。自我とは決して混じり合わない個性でもある。しかして、本当の人間は、決して量産型のエヴァシリーズではない。ひとりひとりが個別の人格、個別の人生、個別の知性、個別の身体をもった、確立された個人である。

個別の知性をもっている以上、個別の癖がある。個別の身体をもっている以上、個別の体臭がある。身体にはどうしたって体臭が伴う。綾波レイは肉のくさみが苦手でチャーシューを抜くのに、くっさいニンニクはいれる。匂いには、好きな匂いと苦手な匂いがある。群体である人間の、ひとそれぞれ、個々人性を象徴するものとして癖と体臭は用いられているのではないでしょうか。

おそらくは、この癖であるとか、匂いであるとか、単純にそれそのものと解釈するよりも、人間には面影がある、その面影の記憶が個人を個人ならしめる、また同時に、個人の親、さらにその奥へと、遺伝子で連なるものとして解釈するのが自然なのでしょう。

ウルトラマンはヒロインの体臭を嗅ぐ。あれは群体の中から一人を見分ける描写である。そしてヒロインはウルトラマンの尻を叩く。あれは、自身の知性から生まれる癖を、そしておそらく気合をいれるための自分だけのスイッチを、他人に分け与える絆の描写でもある。おそらくそういう意図であるのは理解できます。が、現代においてド直球のセクハラを投げている。そのように見える。

しかし同時にこれは非常にクリティカルな問題でもあって、結局のところ好きとか嫌いには身体性が伴う。よく言われる「見た目じゃない、中身が大事」を突き詰めれば、ヘテロもバイも存在しないわけです。だって魂が好きなら身体はどうだっていいはずです。仮にパートナーが同性でもパートナーになりましたか?ときいてイエスと答えられるヘテロカップルがどれほどいるでしょうか。

ですから、特に意識して問題を投げかけたわけではないと思いますが、あれらフェチズムの描写が問題とされている状況自体が極めてクリティカルで、批評に値する価値があると思います。好意には身体性がつきまとう。しかし身体への眼差しは、それが相互に好意を持っていれば心地よい可能性はあるけれども、そうでなければ不快なだけです。

ウルトラマンは一般的には感情移入することができない主人公で、その眼差しを兼ねるカメラには、どうしたって感情移入はできない。であれば、カメラの眼差しは客観的なものに見え「好きな人はそんな風にみえるよね」なんて移入もできないわけです。これそのものは本をどう監督するかの作家的・技術的な問題ではありますが、さてしかし、ここから考えられる問題系はいくつも存在します。その作家性を一般的には共感できない対象に移入できるマイノリティと捉えればクィアな視点が生まれますし、技術的問題ではなく描写それ自体を非難する立場であれば、身体を眼差すこと自体が問題になる。

しかし、身体への眼差しを不快なものとして廃する時に、果たして恋愛は描けるのだろうか。身体性を廃した魂だけの恋愛とは、かつて庵野がグロテスクに描いたLCLに溶け合う人々ではなかったか。我々は95年に回帰するのか。この現代的、きわめて現代的であり、同時にきわめて人間的な新たなる課題を提示して、わたくしの中間報告を終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

仰々しく頭をさげる男と、まばらな拍手。

「続いて、質疑応答となります。本報告についてご質問やご意見等がございましたら、挙手をお願いします」

無機質なアナウンスが場内に響く。一人の男が手を挙げる。

京都大学庵野工学科の六分儀です。本日は興味深い報告をありがとうございます。さきほど外星人を使徒に照らす根拠として、外星人が異星の種族ではなく単体で完結した生物であるとしていました。ですが、ウルトラマンには明らかに同種族の仲間がいるように見えます。光の国についてはどうお考えでしょうか。」

友好的に振る舞っているが、その笑みにはあきらかな挑戦の気配が伺える。

「ありがとうございます。ウルトラマンは種族であり光の国は群体ではないか、とのご指摘ですが、これは非常に痛いところです。私はこの問題について、本当はゾーフィーも登場させたくなかったのではないか、と考えております。というのも、外星人の名前から「星人」を省く以上、「ゼットン星人の操るゼットン」が「ゼットンの操るゼットン」になってしまう。さすがにこれはわかりづらい。そこで起用されたのが、存在しないウルトラマンであるゾーフィーだったのではないでしょうか。ご承知の通り、ゾーフィーは児童雑誌の誤植から生まれた宇宙人で、ゼットンを操る存在です。これなら音としてもわかりやすく、かつ原典に忠実な表現になるし、マニアックなこだわりを演出できる。エヴァーを連想させるところにも味わいがある。わざわざゾーフィーを起用したのには、光の国がウルトラマンという種族の星ではなく外星人の連合のようなものであることを示すとともに、ウルトラマンに同種は存在しない、いるように見えてもそれはフェイクだという諧謔性を込めた表現なのではないでしょうか」

六分儀と名乗る男は口角を上げて着席した。礼の言葉。続いて、少女が手をあげる。

「沖縄女子宇宙高等学校のタカヤです。その……ありがとうございます。ついていけないところも多くて、変な質問だったらすいません。人間の形をしているから心が通い合うんだったら、どうしてカヲルくんは死ななければいけなかったんでしょうか。シン劇みたいに、シンジくんを守るためならわかります。でも、テレビ版のカヲルくんにはシンジくんと生きる道だって、あったんじゃないでしょうか!だって、心が通い合っていたのだから!」

「タカヤさん、ご質問ありがとうございます。渚カヲル碇シンジについて、私は本当に心が通い合っていたわけではないと解釈しています。人間に近い形の非人間は人間とコミュニケーションできる。人間の形に近づくほど、人間の心に近づける。けれども、絶対的に人間ではない。好意は好きと違うのです。『シン・ウル』でも描写されていますが、どんなに化けても本質が違う。ウルトラマン使徒と人間の混ざりもので、人間の身体を獲得することで「生きたい」と思うようになった。けれども人間の身体を手放した時、もうウルトラマンは人間ではない。敵対し合うしかないものが選べる最善の好意は、相手を傷つけないように、利するように、自死を選ぶことしかない。私はこの描写が自己犠牲の肯定に見えてまるで納得していませんが、そう読み取っています」

「そんな……」

ダイバーシティの現在、これは興味深いテーゼです。これからはあなた方の時代です。この問題は、未来あるあなたにこそ考えていってほしい。渚カヲルは同性愛者として消費されていますが、同性愛者ではない。彼が単体で完結している生殖の必要ない存在、性別に意味がない存在ということでしかない。彼は碇シンジの心に興味をもった。身体は、そしてその先にある生殖はどうでもいいのですね。そうやって死を選んでしまう。生きたいと思わせることができない。渚カヲルに繰り返し死を選ばせることしかできないエヴァンゲリオンの呪いは、ヘテロセクシャルであることに人間性を見出す描写に他ならず、95年だから見逃された描写です。フェチズム同様、極めてクリティカルな要素に思われます。これは、未来への課題です」

「ありがとうございます。努力と根性でがんばります!」

タカヤ、大きくお辞儀をする。

「ネオ・アトランティス大学のガーゴイルだ。『シン・ウルトラマン』はエヴァである。なかなかおもしろい解釈だ。投げかけられた問いも……ふふ、勇敢だな。しかし、君にいうことでもないが、身体への眼差しを表現したいのであれば他にいくらでも方法があったのではないのかね。今作のセクハラ描写は愚か者の辿る末路だ。愚かさの証としてウルトラマンは、日本政府にチームを人質にとられて脅迫された時、人類を滅ぼすなどと息巻いていたじゃないか。もっと合理的にことを進めるべきだと思うがね」

「ありがとうございます。セクハラ描写には私もやりすぎなんじゃない?っていうかしつこくない?って思っています。ヒロインが巨人化した時のカメラもそうですが、巨大化が治癒され、医療機関の検査をうけた際に「恥ずかしいことをされた」と言わせるのは明らかにやりすぎで下品・不必要に感じました。こうしたフェチズムの描写が執拗に繰り返されることで記述の意味よりも純粋なセクハラ感が増していく。加えて、アニメーションの非実在性と実写の生々しさの差異に対する感度の低さ、これは主に監督と撮影技術への非難になりますが、そこは純粋に批判されるべきポイントだと思います。さて、チームに対するあまりにも、あまりにもセカイ系な判断を下したウルトラマンについて、あれには私もドン引きしました。しかしひとつ、ある霊感を得たのです。あまり開陳したくはなかったのですが、私の解釈、いえ、邪推を、ここで総統に披露させていただきます。

チーム、禍特対のメンバーは四人。ひとりは言うまでもなくウルトラマンです。残るメンバーは男性が一人、女性が二人。

男性の一人は「職場に趣味のおもちゃを飾りまくる」「追い詰められると一人になってスネる」「オタク」です。

女性の一人は「ストレスが溜まると過食」する。

そしてヒロインの女性は「仕事モードへのスイッチがある」「仕事モードでは衛生観念が喪失する」「元公安で調査が得意。ウルトラマンの日常が気になって公安に調査を頼む」などの描写がみられます」

「まさか……いや、そんなはずがない」

「いいえ、そのまさかです。男性はもちろん庵野自身。そして過食は『脂肪という名の服を着て』、仕事のスイッチ、衛生観念の喪失は『働きマン』、プライベートの調査は『監督不行届』……。あのチーム、男性二人・女性二人に見えますが、本当は二人しかいないのではないでしょうか?」

「そんな描写をすれば、第三村でわずかに近づくことのできたプロレタリアートの輝きを、永遠に失ってしまう!」

漆黒に浮かぶ黒い平面体、モノリスがひとつ、またひとつと消えていく。最後に残った一枚のモノリスに刻まれた文様が、赤く、深く輝いている。

エヴァ初号機に『ウルトラマン』が刻まれた。我々はエヴァシリーズを本来の姿にしておかねばならん。しかし怪獣との戦いは、巨大兵器で吹き飛ばすことしかできない。『仮面ライダー』は人にして人ならざるもの、怪しくあれど人であるものとの戦いだ。かつて人であったもの、人に忘れられたもの、戦えば思い出してもらえるかもしれないと願ったもの、絶望と失望の果てに、自らの価値を戦うことに規定したもの。1号と2号は既に、惣流タイプと式波タイプが用意されている。弐号機パイロットによる遂行を願う」

サングラスをかけた、腕を組む男。光が反射して、その瞳は見えない。

「問題ありません」

「我らの願いは未だ果たされていない。いま一度、庵野秀明による安らかな魂の浄化を願う」

最後のモノリスが消える。真っ暗な空間に、サングラスの男だけが残る。

男、笑む。

終劇