メッチャほしいものがあるんだけども、限定販売だ。平等性のために抽選は毎日やってるけども、昼には売り切れてしまうようだ。つらい。世界は労働者に厳しすぎる。
うーーーん。よくわからないことがある。
「友達がいない。遊びに誘ってもらえなくて寂しい」と言っていたら「それはお前を友達だと思っている人に失礼な言い方だ」と叱られたことがある。それはそれでわかる、たしかに「友達がいない」は言い過ぎかもしれない。でも文字通りでないことくらい伝わってほしい。「この本を借りたい」とか「あのレコードをちょうだい」とか、そういう具体的な用事がある時にしか声をかけられないのが寂しいと言っているのである。いや、実はすでに過去形で「寂しかった」と書くのが正しい。
で、その人のInstagramを見ていると、おなじ界隈(と私は思っている)の人たちとよく遊んでいる。うーん。私が「寂しい」と言っていたのは、まさにこれのことなのだが、これを寂しがるのは失礼なんだろうか。って不思議に思う。
思うが、最近はもっぱら「思う」だけで「感じる」というのはなくなってきた感覚がある。これは訓練の成果で、誰かに声をかけて遊びにいったりするのをやめて日々のアウトソーシングをやめて食事をつくったり掃除の解像度をあげたりしてみたら、ひとりでいることが自然体になってきた。筋肉がついてきた。 日常はきちんとこなせばやることが多すぎて、暇を感じる余裕なんてない。
そして「不思議に思う」だけになったので、一連のものごとを、単に構造や理屈としてだけ考えることができる。たぶん世の中には、具体的な用事がある時にしか用いられない道具のような人間と、そうでない人間がいて、それはそれでそーゆーもの。これは一般的には親密とか距離感とか空気みたいな言葉で表現されているが、いわば階級みたいなもので、人間には階級差がある。
そして異なる階級から異議を申し立てるのは失礼なことだ。社会はそういう形になっている。これが社会的地位だとか制度だとか、そういうのは理論で抵抗できるし、するべきだ。でも「友達」はそんな生きるか死ぬかって話でもないし、理屈で通したって仕方がない。私だって「おい!友達なんだから平等に扱え!」なんておかしなことを言うつもりはない。でも寂しがるのは「失礼」なのだろうか。まあ、でも「失礼」なのだ。受け入れるしかない。そう思うとマナー講師というのは感情の軋轢を礼儀・礼節にしてしまうので最強の力にも思えてくる。礼儀・礼節みたいなものはどうしようもなくて、ただただ、しょうがないものだ。これを受け入れるのはトレーニングしかなくて、実際に成果もでている。私は私で、道具の階級をやっていく。
などと複雑に考えたけど、これ単に「お前のことは友達だと思ってないけど、そういう言い方をするのはお前の友達に失礼だよ」と言われていたのなら、別になんの不思議もなくて単なる自然なことな気がしてきた。でも、だったら友達ではない人に心情を吐露しても、いいんじゃないか?それなら、赤の他人に対して「寂しい」と言っているだけだし「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ穴があったって、いいんじゃないだろうか。「友達がいない場所であっても友達に対する礼節を忘れずに」ということなんだろうか。でも、居酒屋でよく隣り合う顔だけ知ってる常連に、家族や仕事の愚痴をいうようなものじゃないの?それって失礼なことかしら……。
新しい謎がうまれてきた。
病院にいく。いつもギリギリになってしまうので早めにでたら死ぬほど時間を持て余して、この緩急の付け方がぜんぜんわからない。これってどうすれば身につくの?