文体を変えたいと思った。

それというのも日記を毎日かいていると、文体に内面が支配されてくる。この感覚は、伝わるだろうか。内面から文体がでてくるのだけども「どうせ誰も読んでいない日記だから」なんて雑に書いていると、文体に影響されて私の内面が粗雑になってくる。わかってもらえなさそうだけども、じゃあアウトプットされたものをインプットして内面がかわる、つまり小説や音楽を消費して自分が変わる、といえばあったりまえじゃん!と思ってもらえるだろう。そういうサイクルは自分自身のアウトプットによっても起きる実感がある。粗雑なテキストを書いていると内面もどんどん粗雑になって縮退のループが起きるのだ。何が言いたいかというと部屋が荒れている。部屋の乱れは心の乱れ、とよく言うが、日記の乱れだって心の乱れになる。

なんで文体を変えようと思ったかというと、唐木さんのGoogle Docが長文になったからだ。当人はラフに書いているというのだが、そのラフさがいい。リズムがいい。もちろんスノッブも鼻につく。そこもいい。要するにあの文体がいいと思ったわけだ。

ところで唐木さんのGoogle Docを褒めたら「お前、唐木さんのこと嫌いじゃなかったっけ」と指摘されたんだけども、嫌いな人でも良かったものは素直に褒めないとたぶんこの世界の本とかレコードとかほとんどが褒められなくなってしまう。それに、唐木さんを嫌っている人として認知されてるから期待に答えるため、なにより楽しんで、そのように振る舞ってるところもあるんだけど、別にそんなクソ本気で嫌ってるわけではない。いや、もちろんクソ本気で嫌いで、カルチャーの悪いところをすべてを抱えてる人だと思ってるんだけども、アウトプットを馬鹿にするような感じの嫌い方の振る舞いをしたつもりはなかった。でもなるほど、そう思われますか。これは嫌い方を考えないといけない。反省した。したけども、どうでもいいな、関係ないし、とも思って、この「関係ない」ってふわっと浮いてくるんだけども関係ってなんだ?と思う。あるとかないとか。だいたい、ないだろ。

日記が唐木さんのことで埋まってるのかなり不愉快だが、21時にちょっと横になったら気絶したので、他になにもない……。