Discordの話

Discordの話でもするか。

ここ半年ほどDiscordを使っていた。もちろんDiscord以外にもたくさんのクローズドなコミュニケーションサービスを使っているんだけども、頻度でいえばDiscordが高くて、もっぱらDiscordだったといえる。

Twitterが広告ばかりの駅ナカの通路みたいになって、とにかく人の行き交いは多いんだけども誰も立ち止まって会話なんてせずに一心不乱に広告を貼り続けているような場所でしかなくなって、コロナ禍の影響でオフラインの関係も希薄になったから、私は人間をもとめて、ほどよく人がいて、ほどよく使いやすいサービスがたまたまDiscordだった。

私のDiscordの過ごし方は、本や映画や記事やTweetを貼りつけては、くだらない考え事や見解を、連想ゲーム的に浮かぶトピックをくっちゃべっていた。だいたい、おおよそ、人流が増える前のTwitterのように使っていたというわけだ。トピックに対してあれやこれやと言い募っていると、誰かが乗っかってきておしゃべりになる。私がおしゃべりをやめても、乗っかってきた誰かと誰かでおしゃべりが続いている。それが楽しかった。だいたいのところがTwitterだった。インターネットだった。

ある日、ひとりのユーザが「新しいおもちゃです」といって話題を振った。内容はよく覚えてないけども、TwitterでのエイジズムのまつわるTweetだかなんだかだった気がする。

これには参ってしまった。

そうか、私はここをそういう場所にしてしまったか、と思った。

たしかに私はべつに、なにかをおもちゃにしているつもりがあったわけではない。けれども誰かを、意見を、感想を、感情を、トピックにしてあれこれ話題にするということは、間違いなくそういう性質がある。私はDiscordで「誰かをおもちゃにしてる」と思わせて「誰かをおもちゃにしてもいい場所だ」と、その参加者に思わせてしまった。そして「新しいおもちゃ」を提供されてしまうようになった。

インターネットというのは異常空間で、会話や内心、つまり本質的にクローズドであったほうがいい、クローズドだからこそ許されている性質の心情が垂れ流されている。Twitterがその極端な形なのだし、Discordにしたって、アクティブでない、オフラインなのかリードオンリーなのかわからないたくさんのユーザがいる。

会話とは本来は「あなたとわたし」の間で交わされるもので、そこには身体としての「あなた」がいて、身体としての「わたし」がいる。その関係性で言葉を交わしているのだから、その文脈や関係性を抜きにしてやりとりを拾えば、まるで悪口でなくっても不快になる人はいる。リードオンリーなのかオフラインなのかわからないユーザは、ひょっとしたら「おもちゃ」で遊んでいる様子が不快で、押し黙っているのかもしれない。

だからコミュニティにはCode of Conductが必要になる。Discordでも、最近はサーバに参加したらCode of Conductに同意しなければチャンネルがオープンにならない運用が増えている。

私は誰かを、何かを「おもちゃ」にしているつもりではなかったけれど、参加者のひとりはそのように受け取って「今度はこれをおもちゃにしよう」と誘ってきたわけで、その外側には、さらに多くの沈黙を守る人々がいる。黙っている人々は、黙らされているのかもしれない。

私はつまり「Twitterをああいう場所にしたのはあなただ」と、「世界をこういう場所にしたのは紛れもなくあなただ」と突きつけられたような気がしてしまったのだ。そして今、Discordの物言わぬユーザも、そこをそういう場所だと感じて押し黙っているのかもしれない。そう思うと軽いショックを覚えて、うんざりして、私はDiscordの鍵を閉めた🔐