姫乃たまの話

姫乃たまが結婚した。

私が姫乃たまと出会ったのは2017年2月8日だった。2017年2月8日の渋谷WWWでのワンマンライブ「アイドルになりたい」だ。本当は違うんだけど、私の中での公式な出会いはそうなっている。

どうしてこのイベントに足を運んだのかを説明するためには先に述べた本当の出会いに触れなければいけない。私と姫乃たまはそれまで何度も会っているんだけども、私が姫乃たまを姫乃たまだと思っていなかった。飲み会で何度も顔を合わせているのに、ほんとうにまったく、気に留めたことがなかった。あとで確認してみてわかったんだけど、なんだったらライブもみてる。どうして気にならなかったかはあまり思い当たらない。せいぜい女性ライターがいるくらいにしか思っていなかったわけだ。

渋谷WWWに足を運んだのも、私が姫乃たまを認知していると勘違いした共通の知人から「ゲストで入れるから行ってあげて」と、つまり応援してほしいと言われたからだ。「へえ、バックバンドがスカートじゃん。タダでみられるならありがたい」というタダノリ精神で足を運んだのだった。

姫乃たまがストレートなアイドルだったら「スカートを見に来たつもりがアイドルのイベントで、空気が違いすぎて驚いた」となるはずなんだけども、そこは姫乃たまだから、そんなまっすぐな感情にはしてもらえない。アイドルのライブ会場に独特の場違い感なんてものはなく、普通のライブ会場のようだった。タイガーとかなんとかいう身振りもなく、しずかなライブだった。

そこらへんを見渡してみると見知ったサブカル有名人の顔がちらほらと見える。だから「アイドルになりたい」なんてライブタイトルであるにも関わらず、それがアイドルのライブであったと知るのはライブが終わってからのことだった。

それはとてもいいライブだった。スカートを見に来たつもりだったので、つまり「僕とジョルジュ」を観に来ていたわけなんだけど、それは前半で終わり、後半は姫乃たまのライブになる。そして姫乃たまのライブはアイドルのライブだから、ダンスとカラオケだ。

素朴に言って楽曲の質もふつーになった。本来はこれがおもしろいのだと思う。アイドルらしくない楽曲をアイドルだと言い張ってアイドルのようにやってみせる。それなのに、奇妙にアイドルになりきれない。そういう自分を眼差す視点を当人自身がもっている。その奇妙さが、たぶんアイドルとしての姫乃たまの評価だろう。

しかし私はぜんぜん違う。グッと目を引かれたのは「くれあいの歌」だ。特別に出来がいいわけではない。くるりを垂れ流していて「ばらの花」になった途端に「なんだこりゃ」と思うタイプのハッとするのはぜんぜんちがう。うまいとかクオリティが高いとか、そういう話ではない。そもそも私はそういう尺度で音楽を聴いていないし、耳もない。

この曲を、このように歌う、この人間というものに目を奪われたのだった。

ライブは一回性のもので、その時その曲のその歌い方というのは録音には残らない。でもライブを見た人間にとって、録音は記憶の再生装置になる。だから「くれあいの歌」がもう一度聞きたくて検索して、やっと姫乃たまがバンドのヴォーカルでもなくシンガーでもなくアイドルを名乗っていたことを知った。

2000年代、サブカルチャーを追いかけていた人たちが一斉にアイドルに向かった。それはやっぱりPerfumeがきっかけだったと思うんだけども、ももいろクローバーの頃にはもう「すっかり置いていかれてしまった」という気持ちでさみしかった。「今、トレンドはアイドルなのだ」と思って地下から地上までいろいろなアイドルのライブに行ってみたけども、どうしても楽しみきれなかった。ファンがどう楽しんでいるのか、どこに魅力を感じているのかはわかっても、のめり込んで「確かに獲得した」という気持ちになることができない。そういう欠落した気持ちがあった。ひたすら「アイドルに興味がない」と言ってくれる安田理央は心の支えだった。

それでもせっかく気になれたのだから、と彼女の定例イベントに足を運んでみた。アイドルファンをやってやろうじゃん、と思った。定例イベントは当時、両国にあったRRRというスペースで開催されていて、東京キララ社という出版社のオフィスでもあった。東京キララ社の本は読んでいたし、古い縁のある友人なんかもいて、とにかく姫乃たまの周辺はだいたい知人・ワンホップ・ツーホップくらいの人が多い、というのも徐々にわかっていくのだが、その時はとにかくなにもわからないまま行ってみた。

イベントは先日のワンマンイベントの振り返りで、ライブの映像をそのまんま流しきったあげく、さらに再現して歌うという、昨日の今日でそんなことやっちゃうんだ感のあるさながら打ち上げで、実際打ち上げだった。アイドルの、表舞台に立つ時のイベントと少しだけクローズなファン向けのイベントはこうも違うものなのかと驚いたものだが、姫乃たまの活動をアイドルにおけるスタンダードだと考えるのは大間違いであることを今は理解している。

このイベントで、姫乃たまは私にスカラベさんを紹介してくれた。スカラベさんは姫乃たまの古いファンで、彼とは今でも全く違う場所でバッタリ会うことがあるし、わけのわからないSNSで一緒に遊んだりしている。こういう共同体が形成されるのがアイドルファンの妙味のひとつで、本来は自然発生的に出来上がるものなのだろうが、そこに働きかけていく力であるとか、人と人を繋げる選球眼であるとか、その特殊性が姫乃たまなのだろうし、そういう人間でもあるのに、それをアイドルという立場でやらなければいけないし、アイドルというロールをもっていなければ、それをやれなかったであろうこともまた、人間としては苦労だったようにも感じる。

アイドルファンとしての遍歴を長々と綴ってもしょうもないので大きく省略するが、とにかく私は姫乃たまを追いかけてみた。私はアイドルファンをやった。やっているつもりだったが、おそらく奇妙なファンだったろう。それでもなんとか、アイドルファンをまっとうしようとした。それは得難い体験だったし、アイドルを推すということがどういうことなのか、体得できたように思う。

姫乃たまは2019年4月30日、平成の終わりとともにアイドルを卒業した。ことあるごとにそのような意味付けをしてしまう。そうなってしまうのが彼女なのだろう。彼女のアイドルとしての活動は、表と裏の二面性を見せつけること。どちらが表でどちらが裏なのか、わからなくしてしまうこと。意識的なのかそうしてしまうのか、あるいは彼女自身もどちらが表でどちらが裏なのかわかっていなくて、おそらくは、それがすべてなのだろう。それが姫乃たまで、それに混乱させられるのがたまらなく楽しい。混沌状態に陥れられるマゾヒズムを、体験として美しいと思わせてしまう魔力が姫乃たまのパフォーマンスだ。その集大成が卒業公演『パノラマ街道まっしぐら』だったし、これをやってしまってはもう終わらせるしかないだろうと思うものだった。私は、アイドルではない姫乃たま、彼女の本性的な部分は、当時から今にいたるまで、その文筆にあると思っている。だから、卒業ライブをやってしまった彼女が、その人生を文筆に絞っていくのは当然の帰結のように感じている。

アイドルであるということは、心のやり取りに貨幣を通すこと、それを強制することだと思う。だからガチなアイドルファンはチェキにこだわる。アイドルファンが高じてほとんど業界人になってしまったような人ですら、チェキを撮って握手をすることにこだわる。欲望を、それを強いる貨幣を、チェキと握手で包み込む。この緩衝材の存在が、その緩衝材を存在させようとする意思が、アイドルファンの矜持でもあるのだろう。これは、姫乃たまがメイド喫茶やキャバクラを「同業」と呼んでいたことで気がつかされた。

だから私は彼女がアイドルでいる間、なるべくチェキを通して会話するようにした。たまに楽屋裏のような機会があっても、なるべく貨幣を通した。そうすることで払わせる側にも払う側にも、相互に貨幣の力が働く。欲望する。欲望される。その欲望を誰も傷つかないよう統治するのが両国RRRだったように思う。

姫乃たまがアイドルを卒業してから、私は彼女とチェキを撮るのをやめた。いや、たまに撮ったりもするのだが、基本的には友人として会話をして関わり合う。アイドルだった人間が、アイドルをやめるためには、なにより周りの人間が彼女をアイドルとして扱うこと、欲望することをやめなければいけないと思うのだ。卒業とは、扱われ方を変えることだ。だから彼女のファンをやってきたものとして、彼女の卒業につきあおうと思って、そうしている。

あるいはアイドルとは、欲望されなければ駆動できないほどにくたびれてしまった人間を奮い立たせるエンジンになりえるのかもしれないとは、卒業後の彼女を見て思うことはたびたびあった。もちろん本来的には、アイドルとはそういうものではないのだが、地下アイドルが、そうしなければ生きられないほどに摩耗した人間のアジールとして機能しているかのようで痛々しく思うような気持ちになったこともあるけれども、彼女は卒業を選んだのだ。それは、そう生きていくと決めた決意なのだから、それにつきあって元ファンになって、友人という立場を選ぶのがスジってもんだ。おもしろおかしく「元推し」と呼ぶこともあるけども、友人だって推してるような関係性かもしれない。

かといって、だからといって、大人がたまには子供に戻ってみたいように、過去を懐かしがるように、それをやってみるように、姫乃さんがアイドルだった頃を懐かしがれればいいと思う。昔のようにアイドル扱いされて、歌って踊ってみせて、そんな時代もあったな、と懐かしがれるような場があり続ければいいと思う。時代は流転する。体験は過去になる。どんなものでも遠ざかる。神保町に移転したRRRが現在を作って、いずれそれも過去になる。いつまでも、そう在り続けるといい。

あらためて、結婚おめでとうございます。