栗原裕一郎はTERFである。
栗原はトランスフォビアに転んだの何だの言われるに決まってるから(もう言われてるか)、笙野頼子をめぐる件についての考えを少しまとめておこう。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月30日
発端は文芸雑誌『文藝』が、ある作家に対する批判を掲載したら、その作家による反論の掲載を拒否しただかなんだかで、みたいなところからはじまっているようだ。
私はそこらへんすべて読んでない。なぜなら論壇とか作家や批評家とかすべてどうでもよいし、栗原裕一郎ほど『文藝』に愛着も期待も興味もないからだ。私はフェミニストでもなければ活動家でもないし、それでもハッキリわかることがある。
栗原裕一郎はTERFである
TERFと排除された人たちのほとんどは、トランス差別者などではなく、生物学的男性が女性スペースに侵入することに不安を覚える生物学的女性にすぎない。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月30日
つまり普通の女性である。
そんな普通の女性に「TERF」という烙印を押し差別者呼ばわりして排除してきたことに、TRAの異常性は集約されるだろう。
このトランス差別に関するテキストを外国人差別に置き換えてみよう。
レイシストと排除された人たちのほとんどは、外国人差別主義者などではなく、血統的外国人が日本人スペースに侵入することに不安を覚える血統的日本人にすぎない。 つまり普通の日本人である。 そんな普通の日本人に「レイシスト」という烙印を押し差別者呼ばわりして排除してきたことに、外国人権利活動家の異常性は集約されるだろう。
マトモな人間であればこれがどれだけ異常な主張なのかパッと見でわかると思う。
トランス女性は女性なのだ。「生物学的男性」とか「生物学的女性」とか、そんな区分を考えるべきじゃない。「普通の女性」には(社会の要請する)女性らしさのかけらもない女性、肉体が屈強すぎて男性にしか見えない女性、精神が強すぎて女性として扱われない女性、ペニスがあった女性、ペニスがある女性、あらゆる「私は女性だ」と考える人々が「女性」であって「普通じゃない女性」なんて存在しない。TRA(トランス権利活動)などと個別の運動のように呼ぶけども、これは「あらゆる女性の連帯」にトランス女性を受け入れる、フェミニズム運動の要素のひとつでしかない。
「普通の女性」という言葉選びは「普通じゃない女性」を想起させてしまう。その言葉を選んでしまった時点で、すでに差別しているのだ。だから栗原裕一郎はTERFである。
でも私は栗原裕一郎に共感を寄せられる。なぜなら私はTERFではないけど、差別主義者のひとりだからだ。
私たちは現在進行系で生きている。この社会と人生は、なんらかの差別を内包した環境で育まれたものだ。私の人生はたくさんの差別を積み上げて構築されている。私は今も誰かを差別している差別主義者だ。差別とは無意識の中に潜み、スマートに発露されるものだからだ。
栗原裕一郎によるスレッドには、複数の問題意識がこんがらがっている。これをひとつずつ紐解いて、その問題意識について差別主義者の私として考えたい。そして最後に、彼が何を言いたかったのかを想像してみよう。
社会的コンフリクトは調停するべきではないか
栗原はTERFの提起する「社会的コンフリクト」を「調停すべき」ではないかと問う。これはまったくその通りだ。トイレも風呂もスポーツもなにもかも、議論して解決していくべき問題だ。でもまず、具体的な話をする前に、話し合う人々が差別主義者であることが問題ではないか。
トランス女性が女性スペースに入ることができない。この問題について「私とあなたは違うものだ」と言う意識から考え始めたとして、その解決はほんとうに「解決」だろうか。「私とあなたは同じものなのに、どうして同じ場所が使えないんだろう」から始めなければいけないのではないか。そこから生まれる答えは物理的・制度的なアウトプットは同じ形をしているかもかもしれないし、なんだったら現在の社会と同じ形かもしれない。けれども「生物学的男性が女性スペースに侵入してくる」という前提から出した答えとは、仮定も、納得感も、まったく違うものになるはずだ。
よくある悪意ある攻撃者については、本当に世界には信じられないくらい邪悪な意思を強い気合とたくましい根性でやってのける本物の悪意は存在するし、TERFの指摘するセキュリティ・リスクは重要だ。しかし、それは設計と実装の段階で考えるべきことで、差別意識とは関係がない。
そもそも女性スペースというもの自体が同じだ。男性も女性も同じ人間である。けれども利用できる場所がわけられている。その理由は様々だろう。恥ずかしいからかもしれないし、屈強な身体に恐怖を覚えるからかも知れないし、生活習慣の違いからかもしれない。でもまず「私とあなたは同じ人間だ」という前提は間違いなくて、そこから落とし所を探して今に至っている。前提を共有することができなくては、納得感のある落とし所を考えることすらできない。だから私はつねづね「まずトイレの話を禁止してみてはどうだろうか」と提案している。
TERFと議論する必要はなくけども、話し合う必要はあるのではないか
「なあ、外国人って本当に同じ人間かな?議論が必要ではないか?」などと言う人間はその場で殴ってもいい。日本国の法律がどうなっていようと、これは国家の法律より上位にある私の法律で許されている。
同じように「トランス女性の権利」について改めて話し合うこと自体がとても差別的行為なのは明白だ。トイレの話をするにしてもまず前提が違っている。それではとても議論なんてかなわない。トランス女性の権利をTERFと議論する必要はない。
しかし栗原を含む多くのTERFが望んでいるのは「トランス女性は本当に女性かな?」なんて議論ではないこともまた、明白ではないだろうか。
大前提が全く違うTERFと「議論」する必要はない。けれども「不勉強」でコミュニケーションを閉じてしまうには、まだ時代が追いついていないのではないだろうか。トランス差別は外国人差別やナチスのような「頭おかしいでしょ!」の一言で済ませられるところには、この日本社会はまだ到達していないように感じる。残念ながら。
差別被害の当事者からすれば「またそこからか」と感じるだろうし、絶望も諦念もあるだろう。だからせめて、差別当事者でない人間がくりかえし何度も「またそこから」はじめ続けるしかないのではないだろうか。このテキストもそういう動機で書かれている。
そしてTERFは差別主義者だが、いまあなたの目の前にいるTERFの人間が、差別を望んでいるのかどうか、コミュニケーションが可能かどうか、それをするに値するかどうかくらいは判断できるように思う。栗原裕一郎に「栗原裕一郎はTERFである」と指摘する価値があるかないかを個別に考える余地はあり、私には指摘する価値があると判断した。この判断基準について、個別の基準はあるように思うが、なんとなく雰囲気で話すと、みなさんもう少し基準を緩和してもいいんじゃないかなって思う。
TERFに「差別主義者」のレッテルを貼る前に「それ差別ですよ」と警告してはどうか
TERFをみつけたら「それ差別ですよ」と、何の迷いもなく議論もなく、ハッキリと言う必要がある。でも「それ差別ですよ」と声がけすることと「差別主義者」のレッテルを貼ることは、意味合いがけっこう違ってくる。
「差別主義者」のレッテルを貼って排除するのは最も効果的な戦い方だし、差別被害の当事者にとってTERFは今すぐ社会からパージしなけれならない敵そのものだ。だから、こういう戦い方を選ぶひとがいるのは当然のことだと思う。
特に栗原が問題にしているTERFのほとんどは「差別」を否定している。だから「差別主義者」のレッテルを貼られることを、たぶん大抵の人よりも嫌悪しているし、恐怖しているし、キャリアも失うし、より「差別主義者」のレッテルが効果的に働く。
攻撃的にラディカルに戦いたい人はそう戦えばいいだろう。ただ、私は保守的だし、そもそも当事者でもなくマジョリティの代表格だ。だから前述の通り、これも「コミュニケーションを取るべきだ」という答えになる、かなあ?
私自身が差別主義者である以上は、差別当事者からいきなり「差別主義者」のレッテルを貼られて断罪されるのは仕方がないと思う一方、まずそっと「それ差別ですよ」と声がけしてもらえたらありがたいと思う。
栗原裕一郎はなにを問題視していたのか
栗原裕一郎の問題意識はそもそも『文藝』が新人批評家・水上文による笙野頼子を差別者であると断じる批判を掲載して、それに対する笙野頼子の反論を掲載拒否したことにある。『文藝』は笙野頼子の特集を組んだ雑誌でもあり、笙野頼子は新人の一矢で、排除された。
栗原は『文藝』編集長の坂上陽子の人間性を問題にするTweetをしている。
ついでに書くと『文藝』編集長の坂上陽子はおれの元担当編集だよ。笙野頼子が最近書いたところによると、坂上さん、水上文の批判文への笙野の反論の掲載を拒否したらしいじゃない。人を差別者呼ばわりしておきながら反論の掲載を拒否してパージするって、ずいぶん大概な言論ファシズムなんじゃないの?
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月25日
栗原が問題意識を抱いているのは「新人の一言で、これまで時代を築き上げてきた作家が居場所を失う」ことにあるのではないだろうか。そのムラの長に対して「それでいいのか」と問いかけている。勢い余って、そもそも雑誌なんて編集長が統治する絶対王政なのは当たり前の大前提にもかかわらず言論ファシズムとか言っちゃってて、その憤怒は察するに余りある。「お前たちのムラって、お前たちの歴史って、それでいいのかよ」という、強い嘆きが感じられる。陰謀論にハマった親を説得するか絶縁するか、みたいな話、と喩えてしまうと毒親の角度が出てきてめんどくさくなるのはわかっているが、つまりおおよそ、これは人情の話なのではないか。
そして、その角度であれば、私は共感を寄せられる。なぜなら、私自身も必ず差別主義者なのだから。ある日とつぜん、仲間や共同体から差別主義者と断罪され、居場所のすべてを失うよりもまずは「それ差別ですよ」と声をかけてほしいと、マジョリティ権力者として思う。私は差別主義者だが、無様な差別主義者のまま生きていたくもないし、人生の価値は変化にあると思うし、浅間山荘の時代にタイムトラベルするつもりも一切ないからだ。
笙野頼子はだいぶキツいことになってるように見えるけど、栗原は坂上とそのムラに、まだ期待をしている、あるいはしていたのではないだろうか。つまり栗原裕一郎はたいていの人間には関係のない文学界というムラの人情を考えたり悩んだり苦しんでいる人間であり、TERFであり、私とおなじ差別主義者だ。
栗原裕一郎はTERFである
最後にもういちどだけ。栗原裕一郎はTERFである。気がついてください。
2022/08/06 20:00 追記
その後の展開をみていると、笙野頼子の言動や論説の中身にはいっさい触れないので、私の読みは間違っていたような気がしました。