文章がかけなくなったようなことをかいている記事を立て続けに読んだ。その気持ちはわからないでもない。ただ、たいていの人はそれを加齢による気持ちの変化に結びつけているのだけども、私の気分はすこしちがう。単純にインターネットが当たり前になったので書きにくくなったように思う。

例えば人生のほとんどを占めるのは仕事だけども、仕事の愚痴なんてインターネットにかいたら、守秘義務をまもっていたとしても、同僚にみつけられたらわかってしまう。古くからインターネットをしている人はいろいろなサービスで同じIDを使っていると思うのだけども、DXだなんだと、社会の中でも自分のIDが露出することは多い。そうなると、私もそうだけど、簡単に同一人物だとわかってしまう。これはなかなか具合が悪い。私を知ってる誰かに向けて声を投げかけているわけではないのだ。

けれど、SNSであるとかブログであるとかは、純粋な表現だけでない、誰かとつながれるから楽しいという気持ちにも促進されていたように思う。なんてことのない日常の発露が似たような誰かを刺激してゆるくつながる。

表現とは動機の違うコミュニケーションと表現のはざまにあるアウトプットは、公共での拡声器にかわった。「わかるー」といってもらえたらうれしいだけの表現が、みつかると具合の人間のほうが多くなってしまって、はたまた、どうすれば「わかるー」といってもらえるか、を考え始めたりして、あれこれと考えることが増えてしまってめんどくさい。それが「かけなくなった理由」なんじゃないかと思う。

ただ私は、それもいいんじゃないかと思う。インターネットはあまりにも書かれすぎていた。ひとはなんでもインターネットに書いてしまっていた。人生で、人間と人間の間で起きたことは、よいこともわるいことも、それは私とだれか、あなたとだれかの秘密の出来事で、露出するにはあまりにもパーソナルでプライベートなものだ。それを娯楽として提供することに、それを娯楽として消費することに、ひとはあまりに慣れすぎたような気がする。

それでも私たちは誰かに「わかるー」といってほしい。誰かに届けばいいな、と思ってしまう。そういう場所が、閉じたコミュニティであるとかZINEであるとかに、移ってきている気がする。つまり、ひとの営為はなにもかわらないのだ。かつてインターネットと呼ばれていたものが包み込んでいたある種の営みは今もどこかにある。