以前、栗原裕一郎はTERF、つまりトランスフォビアであるといっちょ噛みした。もちろん私も、人間がいきなり人間を「お前は差別主義者だ」なんて指さすことを肯定する意図はなかったわけだが、噛んだ以上はその後のてんやわんやを一応、視界には入れていて、栗原裕一郎のいう「TERFならびにTGism概念は危険である」という指摘には妥当性があったように感じられてきた。

まさか「私の性自認は動物」なんて言い出す輩が大登場するとは思わなかったし、脅迫・襲撃も落ち着くことはない。のみならず、国連の採択したジョグジャカルタ原則に寄せる形で検討されたスコットランドのセルフID制を、いまになって国連みずから警告を発する。国連は手のひらを返した形になるけども、状況を鑑みれば「まあなあ」とも思う。クソ本気の犯罪者は加害するためならなんでもする。それはトランスジェンダーへの権利付与とは関係がないけれども、ムーブメントまで発展すると煽られて元気になるヤバい奴らがいくらでもいる。

あるがままでいたいが、群れはそれを許さない。それは誰もがある程度は引き受けていることで、だから、その落とし所を探りましょうね、というだけの話でしかないわけだが、なぜ調和を求める気持ちがここまでこじれてしまうのか。

たまたまある研究者の(とんでもなくざっくり言って)「洗脳の解き方」みたいな、対話の方法を研究した本を読んでいたこともあって、話し方、話し合い方、言葉の使い方は今、とても大切なのではないかと思い始めている。そんなことはずっと大切ではあったのだけども、みんながみんなクソデカい拡声器をもって全世界にむけて絶叫している人類史がはじまって以来の大コミュニケーション時代において、そのすれ違いから生まれる軋轢がとんでもないデカさになっているのではないか。

短歌のような言葉が流行っているのも、私達の間で交わされるようになった新しい言葉、そして交わされなくなった古い言葉、その移り変わりの中で空白になった心情の隙間を埋める動きのように感じられるのであった。