9,10,11と相次いで人と会う。忘年会というわけでもないのだけども、モノを貸したり、預けていたものを返してもらったり、どうしてもついでに忘年会みたいになるわけだけども、これだけ続けて酒を浴びるとしんどいものだ。いや別にそんなドバドバ飲むようなものでもないのだけども日曜日の終わりには体が痛すぎてたまったものではなくなった。
世の中をみていると、どうも世間では本にかかれている内容は高尚なものだと思われすぎているように感じられる。本であるとか論文であるとか学者であるとか、それは立派なものだし、正しいアウトプットだと思うけども、同時にそれは狭い世界でしか通用しないことでもある。学問の世界や論文の世界では思う存分、好きなだけ殴り合えばいい。それはそのために用意された闘技場なのだから、ルールや正しさがハッキリとある。だからといって、学問の世界から我々の生きる場に降りてきた時に効力を持ちえるかどうかなんて、なんの保証もないのだ。
「海外の論文に書いてある」「この本にこう書いてある」「数字に裏付けされている」なんていわれても、我々の人生にはなんの関係もない。まったく正しい論理で、揺るぎない根拠で裏付けされていて、たいへん説得力のある話しぶりで「障害者はさっさと殺したほうがいい」なんて結論を、もし我々の生きる場所で言われたのなら、そいつは秒で殴ってもいい。私達は論文を生きているわけでもディベートを生きているわけでもない。「それってあなたの感想ですよね」なんて言いぶりは、それがパフォーマティブなプロレスの場だから成立するのであって飲みの席でいわれたら水をぶっかけられる。目の前に困っている人間がいたら手伝う。その相手がおろかで間違っていて、その結果として困っていても手を差し伸べる。そんなものは社会だけでなく、歴史だって証明している。ナチスドイツのやらかしたことが人類悪とされるのは、彼らの論理や根拠が間違っていたから、だけでは済まされない。素直に「これは秒で殴っていいよな」を思えることをしでかしたからで、我々は誰に手を差し伸べるのか、誰を秒で殴るのか反射できるように人とふれあい、社会の合意を形成しているのだ。
正しい理屈を積み上げて異様な結論に辿り着くような話ぶりというのは詐欺師がいちばん得意とするものなので、頭が硬すぎるのも困ったものだが、説得されやすいのもよくないと思う。