いやはや、ゲームやりすぎててすごい。毎日深夜まで起きすぎている。

同年代のお子さんがいる知人らと資産運用について話をした。結婚までならともかく子供がいるというだけで資産について考えなければいけない変数がバカみたいに増えて、独身個人というだけで本当にシンプルですっきりする。資本主義の難易度が激下がりする。このイージーモードですらあれもめんどくさい、これもめんどくさい、とか言っているのだから子育ては本当に大変だ。昔はそんなに大変ではなかったはず(昔からそんなに大変だったら人口が増えることはなかったはずなので)なのだが、なぜこうなってしまったのか。

それはそれとして、人間はその立場にならないとそれ自体になれない。ゲームみたいに条件を満たしたからと言ってクラスチェンジできるわけではない。上司というものは、上司をやらされて上司になっていく。大人というものは、もう今日から子供ではないといわれて、大人になっていく。同じように、婚姻や子育て、家族というものも、それをやらされてようやくそれになれるものなのだろう。だから「いつまでも若い」というのは、ずっと昇進しない人間や、部下をつけてみたけどもいまひとつだったのでやっぱり現場に落ち着いた人みたいなものなのかもしれない。会社にあてはめてみれば、いつまでもプレイヤーとして活躍できることはマネジメントができることに比べて劣るものではない。なんなら憧れの対象でもある。だから結婚しない人、子供を作らない人が、いつまでも個人のままである人に比べて劣るところはひとつもない。

けれども、社会の主要な構成者によって社会の形は大きくかわる。個人が中心となる社会において群れを選んだ人はひたすら生きづらくなり、ひとは、生きづらくなる選択をしなくなるのではないか。

若い頃は「年功序列なんてクソだ」と思っていたけども、歳を経てみるとなるほど、単に中年になるというだけでひたすらに金がかかる。若い頃は真冬でもシャツ一枚で済んでいたものが厚着しなければいけない。肌はねんねん干からびて、加湿器を炊いてないと居心地が悪い。肩が痛い、腰が痛い、病気になっても気合が足りない。歳をとるだけで金がかかる。高齢者には金が必要なのだとわかる。そしてきっと、こういうものはその立場にならないとわからないという意味で「親」とも似ている。

若者に中年の苦労はわからない。独身に親の苦労はわからない。部下に上司の苦労はわからない。そして、それらのわからなさの調停として社会の諸制度は存在している。社会制度の健全性は各立場からの声に依らなければいけない。となると、民主主義の正しさに疑問がうまれてくる。わからないものについて、多数派の声を採用することに平等性はあるのか。

ここから未来について、違う立場を理解することについて、倫理について、わからないものと対話することについて迂遠させようかと思ったけど、日記なのに長過ぎる、と思ったのでここでやめる。もう年の瀬だ。