携帯電話で文章を書くのが苦手だと思う。単なるタイピングなら、私がタイプしている様子を見た知人があまりの速さで驚いて「そんなことができるんですね」と思わず話題にしてしまうくらいには早いのだけど、文章を書くのはタイピングとは違うので、ずっと苦手に感じている。

今、携帯電話から日記を書いてみている。それというのも、私は朝、目を覚まして、顔を洗って歯磨きをして簡単な朝食を済ませて仕事へ向かう前に日記を書いているものだから、そうでない時間にアウトプットされるテキストはまだ違ったものになるのかな、と思っての試みだけれども、そもそも最近は、日記を書くという習慣そのものに疑問を感じている。

日記を書くということは私自身を客観的に捉えて文字として記述することなのだけど、これがweblogである以上、これを読む人、そんなに人数はいないのだけれども、どうしたって親しい人間であるとかが浮かばれて、意識を意識したものになる。

ところで労働や、人生なんてものは、本当にくだらない。それは労働や社会というものが私に在り方を強いるからで、私がそれに応じるからで、人生をくだらないものにしているのは私自身なのだけれども、だからこそ動物がありのままでいる様子は本当に感動的で、フリーインプロビゼーションは美しいと思うのだけれども、社会であるとか、生活であるとか、私自身のありように干渉しようとする意思を、私は意識せずにはいられない。その極地である労働や、つまるところ人生は、結局のところ私自身の意思ではないような気がして、そんな思いつきから鬱々としたものが溢れ出しては惨めな気分になるのである。

だからこそ、他者の視線を意識した人生を、さらなる他者の視線を意識しながら記述するこのテキストは、本当にみじなものになる。

これは日記なので出来事を書かなければ、と思い、それ自体が、とまた思考の奥底に沈み込むのに堪えてWHYTE HORSES『Hard Time』を聴いて大興奮。狂った情熱とのレプリケーションが生み出す、愛好家の狂気のようなものが滲み出ている。消費が生み出す自己表現とはこういうものか、と、何度も聴く。